2011/08/02
南アルプス。
と、話がそれ始めたので、戻す。
社長とF川君と男3人旅。社長とは1月の北八ヶ岳以来、なんやかんやと半年ぶり。F川君は4月の東海自然歩道ぶりのご一緒。そして今回は2泊3日。これは4月の東海自然歩道ぶり。テントを持ってくのもそれ以来。初めてと久しぶりが重なると、諸々新鮮で嬉しい。
特に初めての場所は事前情報、特に視覚情報を入れずに、出会ったものへの素直な感動でシャッターを押すチャンスでもある。35mmフィルムを13本。撮りきる事は無いだろうが、300〜360カットはいくとして、帰ってきて数ヶ月後に見返して、その時にイケてるカットが5枚あればラッキーか。
今回は素晴らしい被写体が二人も居るので、撮らされる事必須。まさかのフィルム切れにならないように要注意。
おやすみなさい、いってきます。
2011/08/01
道具が集まると
道具が集まってくると、
そこに小さな「場」が生まれる。
その小さな場所と、自分の居る空間がうまくリンクしたとき、
美味しい珈琲が提供できる。
というのが理想です。
お店とかでいれる場合においても、お店全体とはまた別に、
珈琲を提供するためのこの小さな場所が、とても重要になってくる。
つまり、お店に対するそれと、山に対するそれでは、
この小さな場所の在り方が、大きく変わってくる。
という当たり前のことに、
山で珈琲をいれるようになって、
また様々な場所でいれさせて貰うようになって、気付いた。
人が道具を使って何かするとき、
そこには場所が生まれます。(人が居るだけでも勿論そうなのだけれど)
と同時に、その場所と周囲の関係性が生まれます。(建築学科)
もしかしたら、そういうことを意識しながら、
道具を選ぶようになってきたのかもしれません。
違うかもしれません。
何か道具の話から場所の話へ
そんなわけで、
次回は、じゃあ山で実際珈琲いれてみてどうだった、
というようなことを書こうと思います。
おやすみなさい
道具を選ぶこと
珈琲をいれるようになって、山に登るようにもなって、
「道具」について考える事が多くなってきた。
使い勝手の良さ、見た目、効率、
使う理由は様々あるけれど、
何に優先順位を置くかは、使う人が決めれば良いと思う。
自分にとっては何だろう?
まず見た目のカッコ良さ、はかなり重要である。
いくら便利なものでも、手に取る気がしなかったら、あまり良い道具とは思えない。
(「良い道具は、まあ、カッコ良いだろ。」という謎の確信も自分の中にあったりもする。)
珈琲のための道具については、
「使いこなすもの」という認識が強まってきた。
誰にとっても使い易かったり、便利だ、というものも良いけれど、
まず、
自分の気に入った、コレ使いたい、と思える道具を見付ける。
で、付き合っていく中で、
お互いにとっての最良のポイントに辿り着いたり、着かなかったり。
時に、道具に自分を合わせたり。
そうやって、一つ一つ、集めていけば良いかな、と今は思っています。
2011/07/26
写真
なんつって。
2011/07/23
中央線の車窓から〜
中央線の鈍行列車の車窓。塩山近く。ここまで来るとあちらこちらが山山山。特急も勿論好きだけど、「お金は無いが、時間はある」状態の時には鈍行が一番。
ボックスシートもいいけど、普通座席に座って、向いのシート越しの車窓に見える風景が結構好きだったりする。雲だらけの中に青空がちらりと見えたり隠れたりに静かに一人一喜一憂しながら、お気に入りの一曲を選択して聞いてみるが、もうこの時点では目の前に迫った、待ちに待った山への高揚で曲が入ってこない。イヤホンをはずし、そわそわしながら車窓の外に何とか青空が広がって行くような兆候を見つけようとこっそり必死になりながら、一方で「ガスったり、雨の景色もまた良しか」等と、どんな写真が撮れるだろうか、どんな景色に出会えるだろうかと妄想登山撮影会が始まる。カメラを取り出しフィルムを装填し、来るべきその時に向けてわずかな準備も完了。まもなく到着という頃になり、靴を履く。
車や特急には無い時間の流れ方。お金があって時間がなくても、時間を作って、しばらくはこんな具合で山に向かいたい。
2011/07/17
2011/07/12
2011/07/10
LITE「For All The Innocence」
久々に投稿します。
LITEが新譜を出しました。
その感想と言うか、それをきっかけにLITEについて書きました。
簡単な文章ですけど。。。
良かったら読んでくださいな。
http://hakase-miracles.blogspot.com/2011/07/for-all-innocence.html
2011/07/09
ランプ
2011/07/07
白駒池
そして、やはり毎回感じるのは、帰ってきてからこうして写真にして見ていて「本当にそこにいたのか。」という不思議な感覚。確かに居たから写真に収めているわけなので、疑う余地は無いはずだが、その時見ていたものと、写真になったものがやはり微妙に、決定的に違う。しかも、帰って直後と、時間を空けて見ると同じ写真でも何か違って見えてくる。
体験は薄れて記憶もおぼろげになっていくが、写真だけはよほどの時間の経過(数十年)や圧倒的な喪失(燃えたり」が無ければ、基本的にずっとそのまま。写真体験が勝り始めるとき、そこに写真の強さがると思っている。一方、デジタルカメラやSNSなどが普及した事で、先述のそれとは相反するようなスピードで消費されていく写真もたくさんある。
だから何?って事なんですが、一枚の写真に対して時間(と、お金)をかけるという事は、被写体について、写真について、それに付随するあらゆる事についてちゃんと時間をかけて考えたり思ったり出来るという事。そこを端折ってはどうにも前に進めないのがどうも私の性分のようでございます。その場は軽快なスピードでサクサク更新削除を繰り返して進んでいるようでも、ずっとそこにしかいれない気がしちゃうんですね。
それだけは嫌だから、ちゃんと全部見て時間かかってもしっかり前に進んでいければいいなと思うのです。





